70年のあゆみ ~立命準硬の歴史~


我が準硬式野球部は、昭和23年に正式に設立された立命館大学軟式野球部の延長線上に完成した。

 

全国の他大学に先がけて逸早く、杉江政太郎、大田克彦、加藤三郎ら13名の諸先輩の涙ぐましい努力と非常な困難の中から発足した。

当初は専用のグラウンドがないため、転々としながらひたすら練習に励んでいた。

 

昭和24年に、立命館大学・同志社大学・関西学院大学・関西大学・神戸大学・大阪大学の六大学により関西六大学軟式野球連盟が結成された。後に、関西六大学準硬式野球連盟も発足する。

昭和25年から準硬式ボールが使用されるようになった。

昭和26年の関西六大学春季リーグ戦では初の優勝を飾った。

当時は、中学・高校時代は戦時中であったため野球部もなく、大学から野球を始めた選手も少なくはなかった。また、コーチや監督がいない中でのこの優勝は、立命館大学準硬式野球部の発展のために非常に大きなものとなった。

 

昭和27年の国民体育大会では、全国から予選を勝ち抜いた12校によって優勝が争われ、7年目にして立命館が初めての優勝の栄冠に輝いた。

 

昭和29年の春季リーグでは2度目となる優勝を果たした。

 

8月に行われた全日本選手権大会では決勝戦で逆転負けし、全国制覇の難しさを痛感させられた試合であった。

 昭和36年になると部員数がわずか15名となり、最悪の窮地に追い込まれたが、連日の猛練習の甲斐もあり、翌年の西日本大会では初の西日本ナンバーワンの栄光を手にした。

 

昭和41年秋季リーグでは、チームの成績が向上するにつれて部員数も次第に増員した。監督、コーチ、選手が一体となり、14シーズンぶりに優勝旗を立命館へ持ち帰った。全日本選手権大会では惜しくも初戦で敗退し、日本一の夢ははかなく消え去った。

昭和45年、学園紛争の余波を受け、運営方針が民主的な運営へと移行した。その新体制の苦しみから部員がわずか8人となった。春合宿では、人不足のため先生も守備につかれる程であった。新学期になり新入生獲得に東奔西走した結果新たに8人部員を獲得することができた。春季リーグ戦では当時1回生の寺田喜義が初登板完投勝利を収め、秋へと希望をつないだ。秋季リーグは、寺田善義の見事な力投により3位という成績を収め、続く昭和45年春季リーグでは、西京極球場において対神大戦で17対0と完全試合を達成し、チームの士気を喚起したのである。投球数86、内野フライ7、内野ゴロ7、外野フライ2、三振11という結果で、リーグ戦史上2人目の快挙となる。

 

昭和47年春季リーグでは春リーグ通算4度目の優勝に輝き、東日本大会と西日本大会が一本化された全日本選抜大会に出場した。第1戦では優勝候補であった中央大学を相手に寺田善義がノーヒットノーランを達成し、快勝したが第2戦で惜しくも敗れ去った。

 

昭和56年には、立命館大体育会OB会が発足し、昭和57年には念願の専用グラウンドが原谷の地に完成した。

昭和58年、精神力に優れた完成度の高いチームが完成した。組織力、機動力に恵まれ、2年連続春季リーグ優勝を果たした。関西選手権では準優勝し、第35回全日本選手権大会に出場した。

 

昭和59年になるとピッチングマシーン1台、バッティングゲージ1台がOB会より寄与され、練習法もかなり合理化された。

 

 

昭和62年は立命館の黄金時代到来と言われている。秋季リーグでは9勝1敗で9季ぶりの優勝を果たし、翌昭和63年秋季リーグでは9勝0敗1分で無敗の優勝という創部以来の快挙を成し遂げた。関西選手権を制し、関西地区第1代表で臨んだ全国大会ではベスト4に進出した。

 

平成元年春季リーグでは投、攻、守、共に素晴らしくバランスのとれた立命館に敵はなく、9勝1敗で4連覇を達成した。関西選手権も2連覇で通過し、全日本選手権大会へと駒を進めた。準決勝まで勝ち進んだものの、9回裏に一死もとれずサヨナラ負け。その悔しさをばねに、練習に励んだ結果、平成元年秋季リーグでは5連覇を達成した。 

 

平成2年春季リーグでは、勝って当たり前というプレッシャーの中、リーグ史上2度目となる6連覇の偉業を達成した。個人賞では、最優秀選手・最優秀投手・最多勝利投手すべてを神野勇二が表彰された。彼のバッテリーであった村本孝雄も稀代の捕手であり、ベストナインとして表彰された。関西選手権でも準優勝し、3年連続で全日本選手権出場を決めた。

しかし、同年の秋季リーグでは「誰が連覇を止めてしまうのだ」というプレッシャーが最高潮に達した。連覇も「6」で止まり、新たなスタートを来季以降に期することとなった。そのような中でも、第2回全関西大学選抜チーム・カナダ遠征選手団に神野、村本、西村嘉文の3名が選ばれた。

翌年の春季リーグでは、当時の幹部でかつエースであった神野が「『連覇を止めてしまった幹部』という汚名を優勝により払拭したい。腕がちぎれてもいから投げてやる」と叫び、同志社とのプレーオフの結果、見事優勝を勝ち取った。最優秀選手には当時主将であった村本、最優秀投手・最多勝利投手には神野が表彰された。

平成4年の春季リーグでは3位という結果で関西選手権に挑み、みごと第44回全日本選手権大会に出場した。

 

平成7年、大場茂生監督が就任し春季リーグ戦優勝奪回目指し練習に励んだ折から阪神淡路大震災の影響で、リーグ戦が約1か月遅れてスタートした。

 

 

平成9年、春季リーグで2位という結果を収め、関西選手権のブロック予選を7連勝し5年ぶりに全日本選手権大会に出場した。そしてベスト8まで勝ち進んだ。

 

平成12年には春季リーグと関西選手権を制し、3年ぶりに全国大会に出場するも2回戦で敗退。

 代が変わり、日替わりで違う選手が練習メニューを考えるようになった。このことで選手一人ひとりが密着してチームに関わることができる環境をつくっていた。その甲斐もあり、平成13年の秋季リーグと平成14年の春季リーグで2連覇した。しかし、3連覇にはつなげることが出来ず、また連覇に向けての新スタートをきることとなった。

 

 

 平成18年の秋季リーグで9季ぶりに優勝した。

 

平成28年、春季リーグでは2位という成績を収め、関西選手権に出場し、全日本選手権大会では、2年ぶりのベスト4まで勝ち進んだ。

 

しばらく、優勝から遠ざかっていた立命館だが、平成30年の秋季リーグで6年ぶりに優勝を果たした。その勢いは止まらず、春季関西大会でも3年ぶりに優勝旗を持ち帰ることができた。

 

平成31年3月に70周年記念式典が開催された。

 

翌年の平成31年春季リーグでは2連覇をのがし、2位争いのプレーオフにもつれ込んだ立同戦。惜しくも逆転サヨナラ負けで3位という結果であった。